日高町からの参拝者を見守った磨崖仏

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山 行 日 程 2011年9月25日(日)
天   候 晴れ
同 行 者 K山さん、ともみちゃん、やまあそさん

 8月28日にふるさと兵庫50山の正規ルートで但馬妙見山に登りました。そのとき私は直ぐに帰宅の途についたのですが、残りの3人は但馬妙見山、三重塔の持ち主である日光院を見学されました。その時に、お寺が木を売却するのにあたって妙見山からの木を降ろすのに、木の重さと山の斜度からできる力だけで運搬する弾丸列車を作ったそうです。そこで、今回その弾丸列車の廃線跡を辿ろうということになったわけです。
 国道9号線にある道の駅ようかに8時30分に集合です。節約のため遠阪峠を越えて車を走らせながら無線でやまあそ号を呼ぶと直ぐに応答があり和田山を通過したところらしく、大体時間通りに集合できると判り安心しました。
 道の駅に到着するとK山さんも既に来ておられ、初めてのアイボールなので挨拶を交わし出発です。
 まず県道267号線の最奥にある日畑という集落に向かいます。弾丸列車はとても危険だったらしく多くの死傷者を出したそうで、日畑に向かう途中に遭難者の碑がありました。
 日畑の集落の隅に駐車して準備を整え出発です。時刻は8時50分。

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「弾丸列車でなくなられた人の碑」 「駐車地を出発」

 この日畑の集落のメインストリートは但馬妙見山への参道です。今回のコースは、弾丸列車のルートを示した古い資料があってそれを頼りに歩くことにして、まずは廃村一歩手前の加瀬尾の集落(?)に向かいます。そこにはおじいさんがただ一人住んでいるそうです。
 ところが、橋を渡って民家の前を過ぎるとそこからは農道になっています。しばらく進むとその農道は沢沿いの山道となり、更に進むと加瀬尾から伸びる林道になりました。
 歩きながら「おじいさんはこんな道を使って買い物とかに行ってるんだろうから大変だろうなぁ・・・」と思わず呟いてしまいました。

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「橋を渡って加瀬尾に向かいます」 「山道を登ると林道に合流します」

 林道を歩いていると民家が見え林道はアスファルト道になりました。「なんでここはアスファルト?」と思いましたが、地図を見せえてもらうと加瀬尾の集落(?)は現在但馬妙見山へ向かうのに最もよく使われる道路を主たる道路として使われているのでした。だからおじいさんはあの道を使って買い物に行っているのではなく、自動車でアスファルトの道を使って買出しに行っているのでした。
 集落の奥に行ってみるとおじいさんがおられました。民家は4軒ほどありますが住んでおられるのはおじいさんだけとのことで、そのおじいさんも冬には4mほど雪が積もるので町の息子さんのところで生活されているそうです。
 おじいさんに別れを告げてアスファルト道路を歩きます。このまま道路を使って弾丸列車の配線探索開始ポイントに行く予定でしたが、地図を見ると斜面を登ればショートカットできる点線があるのでそれを辿ることにしました。

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「加瀬尾の集落(?)に到着」 「点線の山道へ」

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「のどかな加瀬尾の集落(?)」

 点線の道は檜の植林帯の中を辿っていて道はかろうじて残っていたので順調にショートカットしてメイン道路に出ることが出来ました。
 出発してから1時間しか経過してませんが、ともみちゃんの号令で一斉休憩です。
 さて、弾丸列車の経路については手元に二つの資料があります。(といっても私は出所を知りません・・・)ただ、共通しているのは出発点が同じということで、メイン道路に出ましたが、実はこの出たところからもう一度山に入っていきます。 

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「植林帯の中をショートカットする」 「点線を辿るとメイン道路に出る」
「再び山へ」

 草付を越えると何と1.5間ほどの整地された道が続いています。先ほどの植林帯を歩いていたときは全く無かったのに何故?と思いながら起点を探しに戻ってみるとその廃線の跡地に杉の木が植林されて大木となってたので判らなかったようです。しかし、そこはスウィッチバックの場所のようです。
 何とあっさりと見付けることが出来たことか。と思っているとやまあそさんは想定どおりだったそうです。問題は、ここからどのように辿っているかということです。二つの資料が作成されたときはGPSなどなく、ルートはかなり胡散臭い。そこで、GPSを持っている我々がその確実な線路の軌跡を証明することになるわけです。
 古い資料によればスウィッチバックの場所から麓に向けて続いている軌道跡の道を歩くとその勾配は600mで30m下っていますので1/20勾配となっています。

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「メイン道路に出る手前の写真」
(赤矢印は山から、青矢印は麓へ)
「古い地図」(赤い線を辿る予定)

 廃線後に植林がされていますが軌道の後は明確なので間違うことはありません。しばらく進むと山の持ち主が変わったからか植林は終わり自然林となりました。
 穏やかな斜面を辿って尾根を越えると谷にやってきました。線路には天敵の場所です。ここは長年の雨による流水で崩れてしまっていました。
 その谷をしばらく進んでいると何と切通しが残っています。明らかに人力によるもので、線路が走っていたに違いありません。

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「軌道跡が崩れた谷を渡る」 「切通しを通過」

 切り通しを通過すると再び軌道跡は植林となっていました。植林、自然林と切り替わりながら順調に進んでいきます。
 軌道跡を歩いて1時間ほどすると先ほどの古い地図に書いてある「南土場」というところにやってきました。ここはスウィッチバックのポイントです。

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「倒木の下を潜ったり・・・」 「『南土場』のスウィッチバック場所」

 ここから軌道跡は沢沿いに作られていたようであちこちに石積みがされています。
 軌道跡が崩れてしまって細いところもありましたが、順調に沢沿いに下ってきました。そして、北側から沢が一本合流した地点にくるっと「この沢を渡りたいねん」とやまあそさん。「え〜!」と他全員。
 2本の沢が合流したあとは川幅が広く絶対に無理。ということで合流する前に1本ずつ渡ることにしました。
 川育ちの私は問題ないので、さっさと渡ります。ところが他の3人の腰がとても引けています。何とか1本目を渡るものの今度は飛び越えが必要です。ああだこうだと説明して何とかクリア!

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「沢沿いの軌道跡には崩れたところも」 「沢を飛び越える!」

 なんで沢を渡ったのかとやまあそさんに聞いて見ると、その沢に沿って付いている上の道は県道267号線の延長で妙見への参道だったのでした。
 これで廃線の軌道後跡査は完了です。
 時刻は11時30分を少し回ったところ。この参道をしばらく登って行くとお堂があるのでそこで食事をすることにします。
 沢から上がって参道を歩くこと30分でお堂に到着。かなり荒れていて、「前来たときはもっと綺麗だったのになぁ・・・」とやまあそさん。天気も良いので外で食事をしました。

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「参道に上がる」 「日畑からの参道はとても歩きやすい」

 30分ほどの休憩を終えて出発です。
 さて、目的の弾丸列車の軌道跡も順調に調査が完了しました。これからのコースは?やまあそさん。
 やまあそさんの計画では、日高町側から妙見に参拝する道があったといいます。そこで、そのルートを辿って日高町海老原から日畑に抜ける峠道まで行き、日畑に下りるといいます。それでは出発しましょう。
 先ほど登ってきた参道を少し戻ると標石があります。「右 おさたに   左 くわんおんじ こくぶんじ 道」と彫ってあります。この分岐を左に進み日高町へのルートを辿ります。
 しばらく歩いていると倒木の下に磨崖仏がありました。いったい何人の参拝者を見守っていたのでしょうか。

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「分岐の標石」 「優しい顔をした磨崖仏」

 磨崖仏を過ぎてしっかりとした参道跡を進んでいると倒木が目立ち始め、道も荒れてきました。更に進むと参道の幅は殆ど無くなり山道のようになり石もゴロゴロしています。このまま進むのには問題が有るので私が偵察に行くことにしました。
 走って10分程先に進むとそれ以上前に進むことが出来ない場所にやってきました。先を見れば沢を渡らなければりません。しかも、その先のルートは未知のルート。時刻は既に13時。中止しかありません。
 戻って3人に説明。常識ある人たちばかりなのですんなり中止に決定。来た道を戻って日畑に戻ります。

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「ここから先は危険の臭いがする」 「酷く荒れた参道」

 来た道を戻ることほど安心なことは有りません。
 順調に下っていると、登りのときにちょっと気になる分かれ道があったのですが、尾根から斜面に入るところで「このまま尾根を下ってもええんやで」とやまあそさんが言いますので尾根を下ることにしました。すると、しばらく下っていると小屋を発見、でも中を調べることは出来ませんでした。残念!
 この後順調に下って日畑の集落には14時丁度に到着です。
 やまあそさんが、ここ日畑は山には質のよい鉱脈があったらしく金銀の鉱脈を探っていたそうで、坑口が幾つか残っているそうです。それを見に行くことにしました。その前に日畑の三柱神社にお参りしました。
 坑口を捜しているうちに3人はバラバラ人になってしまいましたが、以心伝心か同じ時刻に皆駐車地に集合。今日の山歩きが終わりました。

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「気になる作業小屋」 「日畑の集落に戻ってきました」

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「三柱神社にお参り」 「坑口」

 今日は山を登るというのではなくて、山を歩くでしたが、古の道を探しながら歩くのも楽しいものだと知ってとても良かったと思いました。  企画していただいたともみちゃん、やまあそさん有難うございました。
 今日歩いたトラックです。

地図

 私は、歩いた記録を書いているわけですが、その歩いたルートの歴史について深く考えたことは有りません。しかし、やまあそさんはその地の歴史などを突き詰める探究心が旺盛な人で、今回の弾丸列車について疑問が生じたそうです。そのため、再び現地を訪ねられご老人に聞き取り調査をされた結果全容が明らかになりました。そのことをやまあそさんのレポートから引用させていただきます。


やまあそさんのレポートより


 話は変わるが、私のレポートはいつもだいたい1週間ほどで完成しています。しかし、今回は 忙しいこともあったのですが、それ以上になんか引っ掛かるものがあって筆が止まってしまった。
 筆が止まってしまってどうしようもないので、2週間後に再度日畑の集落を訪れてみた。 そこで最長老だと思われるI老人(たしか94歳だった)からお話をうかがう。
 そのときに大正の10年間に操業されたルートだと教えてもらった。 といっても最後の弾丸列車の大正10年でも4歳か5歳だったわけですから実際に見たかどうかは定かではない。
 ちょっとあきらめ気分だったが、村の一番上にある家のご主人のお話で目から鱗が落ちた。
 ご主人(名前聞かずだった)は70歳代の人だが、たぶん親からそういう話を聞かされてきたのだろう。私が2週間前に歩いたルートを説明すると、「ああ、あれはキンマ道なんや」「南土場は昔、ダムのように水が貯められていて、そこに木材を貯蔵して、そこからトロッコで八鹿駅まで運んだんや」と。
 彼は猟師をしていたので山にことを聞いてもとても詳しくて、先ほどのことも納得させられる力がある。しかも私が疑問に思っていたことが、この話ですべて解決する。
 我々もそうだが、それまでこのことを調べてきた人すべてが『弾丸列車』というものありきというのが 前提だったので、それが無かったとは考えられなかったためにああいう資料になったのだろう。
 そう考えると南土場に一旦材木を降ろし(木馬で)、そこから改めて今度はトロッコによる運搬がされた。それが言うところの『弾丸列車』なのだろう。
 私の導き出した結論は、私の目と耳と足と頭で出たもので、正しいかどうかわわかりません。 ひょっとして大正時代の写真か文献などで、実際に車輪あるトロッコであそこを下ったという証拠があれば 話は違ってきます。


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